総会・懇親会
第46回総会懇親会 講演録
今回は、1903年に生まれ19歳の若さで亡くなったアイヌ文化伝承者 知里幸恵(ちり・ゆきえ)さんをモデルにした映画『カムイのうた』の監督の菅原浩志さんを講師にお招きして講演いただきました。お話は映画の抜粋の上映を交えて、映画作成にまつわる業界内の反応、俳優の人選や撮影現場での苦労などの様々な事柄や私たち旭川出身者も知っていそうで知らないアイヌ文化や大自然との関わり方などが詰った心打つものでした。
『カムイのうた』北海道の氷が溶けたら何になる
映画監督はどんな仕事をするのか シナリオを監督も書きます。形容詞を使うと「優しいほほえみ」とか、「美しい山並み」ですが、読むスタッフによって「美しい」「優しい」は違うので、一切、形容詞を使わずに脚本は書かなくちゃいけない。
脚本というのは、設計図であり戦略の本。100ページで、2〜3時間の映画が出来上がります。
カメラは大砲と言われます。設計図や戦略図、大砲があれば、映画の現場は戦場です。カメラマン、照明技師、美術監督、衣装、メイクなど30数種類の職人たちが集まり一本の映画を作ります。
大体、朝7時に集合しロケ地に行く。22時位に家に帰り、翌朝6時出発。50名から100名のスタッフが動き、役者がいれば150名、エキストラがいたら200〜300名位が動く。1日18時間労働で、映画に残るのは2分から3分。
今日はその映画を少しご覧になっていただきます。
知里幸恵さんというアイヌの女性が、1903年に登別で生まれました。6歳で旭川に引っ越します。第5尋常小学校にアイヌの子供たちだけが集められ、アイヌ語を話しちゃいけない、お前たちは日本人になるために日本語を勉強せよと。彼女は13歳の時に、北海道立旭川中学校の試験を受け、非常に優秀な成績にも関わらず不合格になります。
理由は、その学校には第7師団の軍人の子供や、役所の子供が通っているので、アイヌの入学が認められなかったのです。翌年、彼女は旭川区立女子職業学校に、見事受験で合格します。
彼女がアイヌとして初めて、女子職業学校に入る登校日のシーンをご覧ください。
知里さんが残したものは、アイヌ神謡集というユーカラを日本語に訳した本と、彼女の手紙や日記だけでした。我々は撮影のためにアイヌのことを調べ始めました。
アットゥシというアイヌ文様の着物を着ている記念写真があります。アットゥシは木の皮を剥ぎ、ナメし何ヶ月もかかって作る貴重な着物です。普段は何を着ていたのか、アイヌの人に聞きに行くと「アイヌではないお前に何がわかる」と言われました。
東京の芸能事務所に出演交渉をすると、「アイヌに関する映画に役者は出しません」と出演拒否。
若者を集めたオーディションでは
「もうアイヌは嫌だ、和人になりたい」というセリフを若者たちは
「もうアイヌは嫌だ、カズヒトになりたい」と言う。
今の若者は、和人という言葉を知らない。
映画の企画を知った放送局は、かつて研究という名の下で学者達がアイヌの墓から埋蔵品を持って行った事実について、「本当にそれを映画にするんですか?」と聞いてきました。
ある日、オーディション会場に1人の男性が来ました。実は登別に知里幸恵さんの記念碑や記念館はありますが、彼女の人生の3分の2は旭川で過ごしている。だから知里さんの姪御さんが、旭川にも記念館などを残してほしいということで、男性に分骨を託されたのです。
突然で驚きましたがお預かりし、知里さんの遺骨を机の上に置いてシナリオを書き、撮影現場や映画の編集室にもお連れし、出来上がった映画を一番いい席に座って観ていただきました。19歳で亡くなった知里さんが、もう一度スクリーンに蘇って、命を吹き返してもらいたいと思ったからです。
北海道のオーディションでは、アイヌの方が映画に出たいと来られたんです。彼は母親から「映画に出るな、お前が映画に出ると、アイヌだとわかって親戚に迷惑をかける」と言われました。
彼の役は、吹雪の中でニシンを船から陸に運ぶ強制労働のシーンです。
私は彼に本物の髪と髭で撮影させて欲しいとお願いしました。
彼は一年中母親に「映画に出るな」と言われながら、髪と髭を1年間伸ばしてくれました。その強制労働のシーンをご覧ください。
撮影した場所は増毛町の海岸、去年の1月、寒波の嵐でマイナス25℃でした。
プロデューサーは、低体温症になって役者が倒れたらどうする!と反対したんですが、私はマイナス25度で、アイヌが強制労働させられた場所に行き、我々自身が肌で感じる必要があると思って撮影しました。
私が映画で訴えたかったのは、アイヌが過去に受けた仕打ちや差別だけでなく、アイヌには素晴らしい文化があることを知って欲しかった。
映画の中で女の子がお茶をこぼすと、床の神様は喉が乾いていたんだねというシーンがあります。全てに神が宿り、全てを敬う北海道の素晴らしいアイヌ文化。地名も興部とか長万部とか、旭川、札幌、日暮里もアイヌ語で、砂利の多い荒れる川などの意味があったが、和人が漢字に当てはめアイヌ文化を上塗りした。
氷が溶けたら何になる。
小学校の先生が、子供たちに氷が溶けたら何になる?と聞いたんです。子供たちは氷が溶けたら水になると答えた。そこにアイヌの子が1人いて、氷が解けたら春になると言ったんです。素晴らしいこの文化を、北海道を大切にしていきたいと思っております。
(おわり)
第46回総会懇親会 講演録
今回は、1903年に生まれ19歳の若さで亡くなったアイヌ文化伝承者 知里幸恵(ちり・ゆきえ)さんをモデルにした映画『カムイのうた』の監督の菅原浩志さんを講師にお招きして講演いただきました。お話は映画の抜粋の上映を交えて、映画作成にまつわる業界内の反応、俳優の人選や撮影現場での苦労などの様々な事柄や私たち旭川出身者も知っていそうで知らないアイヌ文化や大自然との関わり方などが詰った心打つものでした。
『カムイのうた』北海道の氷が溶けたら何になる
映画監督はどんな仕事をするのか シナリオを監督も書きます。形容詞を使うと「優しいほほえみ」とか、「美しい山並み」ですが、読むスタッフによって「美しい」「優しい」は違うので、一切、形容詞を使わずに脚本は書かなくちゃいけない。
脚本というのは、設計図であり戦略の本。100ページで、2〜3時間の映画が出来上がります。
カメラは大砲と言われます。設計図や戦略図、大砲があれば、映画の現場は戦場です。カメラマン、照明技師、美術監督、衣装、メイクなど30数種類の職人たちが集まり一本の映画を作ります。
大体、朝7時に集合しロケ地に行く。22時位に家に帰り、翌朝6時出発。50名から100名のスタッフが動き、役者がいれば150名、エキストラがいたら200〜300名位が動く。1日18時間労働で、映画に残るのは2分から3分。
今日はその映画を少しご覧になっていただきます。
知里幸恵さんというアイヌの女性が、1903年に登別で生まれました。6歳で旭川に引っ越します。第5尋常小学校にアイヌの子供たちだけが集められ、アイヌ語を話しちゃいけない、お前たちは日本人になるために日本語を勉強せよと。彼女は13歳の時に、北海道立旭川中学校の試験を受け、非常に優秀な成績にも関わらず不合格になります。
理由は、その学校には第7師団の軍人の子供や、役所の子供が通っているので、アイヌの入学が認められなかったのです。翌年、彼女は旭川区立女子職業学校に、見事受験で合格します。
彼女がアイヌとして初めて、女子職業学校に入る登校日のシーンをご覧ください。
知里さんが残したものは、アイヌ神謡集というユーカラを日本語に訳した本と、彼女の手紙や日記だけでした。我々は撮影のためにアイヌのことを調べ始めました。
アットゥシというアイヌ文様の着物を着ている記念写真があります。アットゥシは木の皮を剥ぎ、ナメし何ヶ月もかかって作る貴重な着物です。普段は何を着ていたのか、アイヌの人に聞きに行くと「アイヌではないお前に何がわかる」と言われました。
東京の芸能事務所に出演交渉をすると、「アイヌに関する映画に役者は出しません」と出演拒否。
若者を集めたオーディションでは
「もうアイヌは嫌だ、和人になりたい」というセリフを若者たちは
「もうアイヌは嫌だ、カズヒトになりたい」と言う。
今の若者は、和人という言葉を知らない。
映画の企画を知った放送局は、かつて研究という名の下で学者達がアイヌの墓から埋蔵品を持って行った事実について、「本当にそれを映画にするんですか?」と聞いてきました。
ある日、オーディション会場に1人の男性が来ました。実は登別に知里幸恵さんの記念碑や記念館はありますが、彼女の人生の3分の2は旭川で過ごしている。だから知里さんの姪御さんが、旭川にも記念館などを残してほしいということで、男性に分骨を託されたのです。
突然で驚きましたがお預かりし、知里さんの遺骨を机の上に置いてシナリオを書き、撮影現場や映画の編集室にもお連れし、出来上がった映画を一番いい席に座って観ていただきました。19歳で亡くなった知里さんが、もう一度スクリーンに蘇って、命を吹き返してもらいたいと思ったからです。
北海道のオーディションでは、アイヌの方が映画に出たいと来られたんです。彼は母親から「映画に出るな、お前が映画に出ると、アイヌだとわかって親戚に迷惑をかける」と言われました。
彼の役は、吹雪の中でニシンを船から陸に運ぶ強制労働のシーンです。
私は彼に本物の髪と髭で撮影させて欲しいとお願いしました。
彼は一年中母親に「映画に出るな」と言われながら、髪と髭を1年間伸ばしてくれました。その強制労働のシーンをご覧ください。
撮影した場所は増毛町の海岸、去年の1月、寒波の嵐でマイナス25℃でした。
プロデューサーは、低体温症になって役者が倒れたらどうする!と反対したんですが、私はマイナス25度で、アイヌが強制労働させられた場所に行き、我々自身が肌で感じる必要があると思って撮影しました。
私が映画で訴えたかったのは、アイヌが過去に受けた仕打ちや差別だけでなく、アイヌには素晴らしい文化があることを知って欲しかった。
映画の中で女の子がお茶をこぼすと、床の神様は喉が乾いていたんだねというシーンがあります。全てに神が宿り、全てを敬う北海道の素晴らしいアイヌ文化。地名も興部とか長万部とか、旭川、札幌、日暮里もアイヌ語で、砂利の多い荒れる川などの意味があったが、和人が漢字に当てはめアイヌ文化を上塗りした。
氷が溶けたら何になる。
小学校の先生が、子供たちに氷が溶けたら何になる?と聞いたんです。子供たちは氷が溶けたら水になると答えた。そこにアイヌの子が1人いて、氷が解けたら春になると言ったんです。素晴らしいこの文化を、北海道を大切にしていきたいと思っております。
(おわり)